学問の方法と倫理           


2000年10月11日 No.40
学問の方法と倫理

筑紫都督府の作業仮説

京都市 古賀達也

 『日本書紀』天智六年条に見える「筑紫都督府」をめぐり、多元史観の立場からも様々な論稿が発表されているが、通説としては岩波の『日本書紀』頭注に見えるように、「筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」と、見てきたような何とやらで、学問的には未だ「作業仮説」の域を出ておらず、これでは論証にもなっていないようである。問題の記事は次の通りである。

百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
〈天智六年十一月条〉

 百済を滅ぼした唐は、百済に五つの都督府を置いた。その中でも中心的な都督府が熊津都督府である。その熊津都督府の司馬法聡等を派遣して、境部石積等を筑紫都督府へ送らせたという内容であるが、『日本書紀』の中で唯一ここに筑紫都督府が現れる。他の所では「太宰府」等とあるため、岩波の頭注では「都督府」を「原史料」の「修飾」であり、実際にはそのような呼称ではなかったとしたのであろう。しかし、「原史料」なるものの史料根拠も提示できないまま、そこにあった「修飾」とするなど、暴論もしくは非論理的というほかない。このような「論法」が許されるのなら、自説に都合の悪い表現は総て「原史料にあった修飾」として否定することができるからだ。これではおよそ学問の方法とは言えないのではあるまいか。

 こうした通説に対して、古田武彦氏はこの筑紫都督府を九州王朝が置いた都督府とする仮説を打ち出された。中国の歴代南朝に臣従してきた倭国(九州王朝)は南朝(宋・南斉・梁)から都督などの称号を授与されてきたが、その伝統に立って、南朝滅亡後自ら天子を名のり、ある時期に太宰府に都督を置いたとされたのである。更に、九州王朝の行政単位として「評」を捉えられ、その長が「評督」であり、「評」の上に立つ「都」の長として「都督」を位置づけ、筑紫都督府の実在を論証された。

 他方、従来より多元史観の側から、この筑紫都督府を白村江戦の勝者である唐が倭国占領政策として置いたとする仮説も出されている(注1.)。そして、その延長として「評」も唐が敷いた制度とする説までも出された(注2.)。これを「中国(唐)都督府」説と便宜上呼ぶことにする。
 これら二説の他にも、近畿天皇家が置いたものとする作業仮説も一応可能であるが、そうした説が既に出されているのかどうか、小生は知らない。とりあえず、この立場を「近畿天皇家都督府」説と呼んでおこう。

 このように、天智六年条の筑紫都督府を置いた主体として、可能性の上で三つの作業仮説を設定し得るのであるが、学問の方法から見て、いずれが有力かを検討してみたい。まず、史料根拠の存在という視点から判断すると、古田氏の「九州王朝都督府」説には宋書など中国史書、並びに国内の評制木簡などがある。「近畿天皇家都督府」説には『日本書紀』そのものが史料根拠となるが、後世、近畿天皇家が任命した筑前や筑紫の長官・第一人者を「都督」と呼ぶ慣習があることも、同仮説の傍証とできよう(注3.)。これら二者に比べて、「中国(唐)都督府」説は史料根拠が存在しないようである。『旧唐書』には中国内外の都督任命記事が頻出するが、倭国に都督を置いた記事は無い(注4.)。この史料根拠が無いという点において、「中国(唐)都督府」説は立てやすい仮説ではあるが、同時に、立て通しにくい仮説でもあるのだ。

 次に論証の面から比べてみよう。結論から言うならば、論証の明示とそれが成功しているのは、古田氏の「九州王朝都督府」説のみである。既に論証が完成している九州王朝説を背景に、中国史書や評制木簡・文書、太宰府に現存する都府楼という地名など、それらはいずれも論証を支える有力な根拠となっている。比べて、「中国(唐)都督府」説は未だ必要にして十分な論証がなされているようには見えない。更に、「評制」をも唐が置いたとする仮説は、次の金石文の存在からも成立困難である。

「辛亥年(六五一)法隆寺献納御物金銅観世音菩薩立像台座銘」
 (正面)辛亥年七月十日記笠評君名大古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈
 (左面)太利古臣又伯在建古臣二人去願

 このように評制が白村江戦(六六二、『日本書紀』では六六三年)以前の金石文に見えることから、白村江敗戦後の倭国に唐が施行したとするのは、作業仮説としてさえも存在困難なのである。

 歴史研究の方法として、作業仮説を立て、その当否を検証するという方法は歴史の真実に至るための一手段であるが、本稿にて取り上げたような筑紫都督府の施行主体を論ずる場合は、複数の作業仮説が存在することから、それぞれの当否・優劣を検討しなければならない。少なくとも、古田氏の先行説が存在している以上、それとは異なる仮説を立てるのであれば、通説の批判に留まらず古田説の批判も不可避の手続きである。そして、そこにおいては、百の声高な主張よりも一つの確実な史料根拠、一つの冷徹な論証の明示こそが必要であること、言うまでもない。

 古田武彦氏の九州王朝説は、その結論だけではなく、そこに至った学問の方法が旧来の一元通念のそれより卓越していたことを忘れてはなるまい。多元史観・九州王朝説の継承発展を志す古田学派は、一元通念を否定すると同時に、アマチュア歴史研究家が陥りやすいとされる独善性をも排さなければならない。何故なら、近畿天皇家一元通念も、「七世紀以前から天皇家が日本列島の唯一の中心権力者」という論証抜きの独善性(イデオロギー)から出発した「学説」であるからだ。多元史観研究者・古田学派と雖も、こうした独善性を排すことなくして、その学的発展は困難ではあるまいか。

 まして、史料根拠の明示も論証もなされないままの「作業仮説」を自明のものとして、更に別の仮説の根拠に使用するという方法は、学問の方法として危険である。万が一、それが当たっていても、「まぐれ当たり」と言われても仕方なく、むしろ歴史の真実を見失う危険性をはらんだ方法と言わざるを得ないのである。もちろん、作業仮説の発表そのこと自体がいけないわけではない。しかしその場合は、それが作業仮説に留まっていることを明記し、慎重に判断を留保する姿勢こそ、真摯な歴史研究者の取るべき態度であろう。
 論証は学問の命である。論者の諸説を見るに当たり、その結論だけではなく、それがいかなる史料根拠に基づいているか、いかなる論証を経ているか、その論理の一貫性は保たれているか、こうした視点で判断することが、歴史研究者にとって絶好の訓練となる。本連載もその一助になれば幸いである。

 

(注)

1. 平野雅曠「筑紫都督府について」、市民の古代7集所収。
 川端俊一郎「隋書の阿輩鷄*彌など倭語 (筑紫語)の読み」、北海道学園大学学園論集第一〇四号所収。
 室伏志畔「九州王朝論者の試金石」、 古田史学会報三九号所収。
 佐藤久男「薩夜麻の運命」、多元三八号所収。

鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。JIS第3水準、ユニコード96DE

2).前出の平野雅曠、佐藤久男両氏の論稿において、唐が筑紫都督府と評を設置し、薩夜麻を長官に任命したとされた。

3).『二中歴』「都督歴」に平安時代の歴代「都督」の人名が記されている。戦国時代では大友宗麟(一五三〇~八七)を「九州都督源義鎮」と記したものも見える(太宰管内志・豊後之五、壽林寺)。また、筑前黒田藩の黒田継高を都督と記した金石文も糸島郡誌(層々岐神社)に紹介されている。

4)『旧唐書』東夷伝だけでも次の「都督」記事が見える。
 高麗伝「遼東都督」、百済伝「熊津、馬韓、東明等五都督府」、新羅伝「使持節大都督」。ちなみに倭国伝と日本国伝には都督記事はない。

 

〔追記〕

 本連載前号「フィロロギーと論証責任」において、唐代の「島夷」の用例として『北魏書』を紹介したが、小生が参照した百衲本二十四史『魏書』の「島夷」が記されている部分は、いずれも北斉の魏収による『魏書』残存部分であり、従って唐よりも前代の用例であった。この点、訂正する。なお、論旨そのものに変更や影響はない。

 


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