学問の方法と倫理           


古田史学会報2000年8月8日 No.39

学問の方法と倫理

フィロロギーと論証責任

京都市 古賀達也

 当連載の“「『邪馬台国』はなかった」の眼目”(本紙三七号)において、荒金氏の論考を題材として、「論証責任の所在」というテーマを扱ったのであるが、それに対して、早速、荒金氏より反論をいただいた(本号掲載「古賀達也氏の迷妄の立論に答える」)。ご覧の通り、いささか感情的な論調ではあるが、古田史学の母なる学問領域ともいうべきフィロロギーと、先の「論証責任の所在」というものを改めて説明するのに、よい機会でもあるので、今回は氏の「反論」を題材に論じたいと思う。
 フィロロギーとは、人間が認識したものを再認識するという学問であり、その対象はおよそ人間が関わったもの総てであると言いうる。例えば、史書、文学、芸術、建築物、遺物など、その対象は広くかつ深い。今回の場合、王維の詩がその対象であり、王維が自らの詩とその一字一句をどのように認識していたのかを、現在のわたしたちが再認識する学問がフィロロギーなのである(注1.)。
 その場合の肝要の一事は、それを現代人の「常識」から解釈するのではなく、王維その人の認識をたどること、これである。古田氏は『「邪馬台国」はなかった』で、三国志の著者陳寿を信じ通すという方法を貫き通されたのであるが、その場合も三国志における陳寿の「筆跡」と用例を調べ抜き、そして、画期的な邪馬壹国博多湾岸説へと到達されたことは、読者もよくご存じのことと思う。従って、同様に今回問題となった「島夷」という表記が何を意味するのかは、第一に王維の詩そのものの分析によらねばならぬこと、自明であり、言うもおろかである。
 小生が先稿で「古田氏の立論の根拠いかなる論点で成立しているか」と述べたのは、正にこの点であった。すなわち、王維の使用する言葉を王維の詩そのものから合理的に解釈するというフィロロギーの方法論と、従来説(渤海遠征)では詩の内容と対応しないという事実こそ、古田氏が問題とされた「論点」なのである。そして、その前提に立って、詩の中に見える「むしろの帆をもて聊か罪を問う」や「卉服をきたるは盡く擒となる」という表現を根拠に、それらを白村江の海戦を指したものとし、そこに現れた島夷を日本列島の倭国であると、古田氏は立論されたわけである。
 しかし、荒金氏は広辞苑をさんざん引き回したあげく、「古田氏の議論の前提となっている、古田氏の議論の要点や中心点」などと故意に読み替えて、「頭がおかしくなりそうだ」と述べられるのである。頭がおかしくなるのは荒金氏の勝手であるが、他者の文章を理解する場合は、まずその文脈を正確に読み取られた後、知らない語句があれば広辞苑で調べるのが、普通の方法であろう。もちろん、その場合でも辞書に記された複数の用例から、どれがふさわしいかは、やはり文脈から判断して妥当なものを選択しなければならないこと、言うまでもない。この点、荒金氏には、文の全体を読み取るのではなく、文章を細切れにした上で、独特の「解釈」を施し、本来書かれてもいないことに対して論難される性癖をお持ちのようである(注2.)。
 次に、ついに荒金氏には理解いただけなかった「論証責任の所在」という問題を、わかりやすく小生もたとえ話で説明しよう。
 フルタという人が、「久留米高専を卒業し、京都の化学会社に就職した」という古賀の発言から、古賀を九州出身であると理解し、また古賀という姓が九州に多いことも九州出身説に有利、そう述べたとする。ところがアラカネという人が古賀の妻や娘の戸籍を根拠に、「同時代の同じ家に住んでいる同じ古賀姓の他の二人の故郷が京都市であるのは『史料事実』であるから、それをクリア(否定)できない限り、古賀が九州出身という説は崩壊する」と反論した。さて、どちらの言い分が正しいであろうか。言うまでもなく、フルタ氏の方が論理的かつ方法論の上からも正しいのである。
 しかし、アラカネ氏にも形勢逆転の道が残されている。それは、古賀本人の証言から、あるいは古賀が言ったり書いたりしたものを調べ上げて、古賀の故郷が京都市を、もしくは九州以外を示しており、九州を示している例がないことを証明できた場合である。その場合にこそ、アラカネ氏の「反論」が論として成立し、フルタ説は崩壊するかもしれないのである。そして、ここが肝要の一点であるが、その調査(論証責任)はフルタ説は成立しないと反対するアラカネ氏自身が負わねばならないのであり、決してフルタ氏ではない。
 これは、荒金氏が述べられた「学生と教授のやりとり」などとは、およそ次元が異なる学問論争上の基本ルールの問題なのである。まして、「新調した服のほころび、云々」に至っては、それこそ「迷妄の立論」という他ない。
 話を「島夷」に戻そう。島夷という用語はその本来の字義からすれば、東夷中の島国である倭国とするのが第一義である。しかし、その場合でも詩の中で使用されている以上、詩そのものの合理的解釈からも矛盾無く導き出されねばならない。この二つの手続きを経て古田説は成立しているのである。一方、王維の時代、唐代では「島夷」という語句が倭国以外にも使用されている例がある(注3.)。例えば『北魏書』。なんと南朝を「島夷」と呼んで蔑んでいるのである。しかし、それでも王維の詩中の「島夷」を倭国とする古田説は成立する。重ねて言うが、王維の認識(使用した語句)を理解するには、第一に王維自身の文によらねばならない、というフィロロギーの方法論から見れば、これは明白なことなのである。王維の詩そのものの内容の理解から、その「島夷」が倭国を指すと考えられる以上、たとえ同時代の他の詩人の用例をいくら示しても、反論にならないと小生が言った理由をおわかりいただけたであろうか。
 率直に言って、小生よりも人生経験も学識も深い荒金氏に対し、先のたとえ話の様なレベルの例まで挙げて説明しなければならないことを、嘆かずにはいられないのである。また、荒金氏が紹介された比干碑の島夷の例も、仮にそれが高句麗を示すと理解され得るとしても、それこそ何故島ではないことが知悉されている高句麗が島夷と記されたのか、という疑問から、「島夷」そのものへの探求に向かう、これが学問を志す者の発想、姿勢ではあるまいか(注4.)。多元的歴史観(多元的視点)を持つ者であれば、なおさらである。しかし、荒金氏は「島夷」探求ではなく、古田氏への安直な「批判」へと向かわれた。しかも、自らの方法論の誤りに気づくことなく。そこには、真摯な歴史研究者としてのかつての氏ではなく、「古田離れ」の「正当化」に腐心している組織の代表者としての顔しか浮かんでこないのである。小生はこのことを誰よりも惜しむものである。
 最後に付言する。小生は本連載の「序」(三六号)において、『俳諧問答』の横沢三郎氏の解説を紹介した。そこには、「(許六と去来の)この問答の優れている所以は、その真面目さにある。更に言へばその真面目さは、門戸を張らうとするやうな下心から出たものではなく、純粋に芸術的な立場に立ってゐる点にあるのである」と記されている。小生も純粋で真面目な批判や論争は大歓迎である。しかし、荒金氏の今回の「反論」は果たして、読者をしてそのように思わしめうるでものあろうか。小生は先の荒金稿への批判(三七号)にあたっては、礼を損なわぬよう、評価すべき点は評価しつつ記したつもりである。しかし、氏は一元通念の学者や偽作キャンペーン一派に対しては、かつて一度も発せられたことのないような、敵意と揶揄に満ちた筆鋒を以て、小生への反論とされた。
 小生は、本連載やそれに関わる論争を、後世の人をして、「我々は古田の学問や学問思想を探求する上に、この問答から教えられる所が極めて多い」と称されるようなものにしたいと願っている。その意味でも、荒金氏が「学問の大道」に立ち返られ、多元史観研究者にふさわしい品格ある「問答」を期待したいのである。

(注)
1. フィロロギーについては古田氏の次の二稿を参照されたい。
「アウグスト・ベエクのフィロロギーの方法論について〈序論〉」(『古代に真実を求めて』二集、明石書店)
「村岡典嗣論・・・時代に抗する学問」(「古田史学会報」三八号)

2. 荒金氏が、当時代表をされていた「倭国を徹底して研究する九州古代史の会」の機関紙一九九九年五月二〇日発行号外において、古田史学の会の会則に「古田武彦氏を顕彰する」の一文があり、「おこがましい」と、古田史学の会を突然に一方的に非難された。それに対して、古田史学の会では水野代表・古賀事務局長の連名で、本会会則にはそのような一文はなく、誤引用であり、その点を訂正してほしい旨、申し入れたのであるが(同年七月十七日付)、荒金代表(及び役員会一同)からの返答(同年九月四日付)は、拒否であり、そこでも広辞苑や司馬遷の『史記』まで持ち出したあげく、本会会則第二条(目的)の「古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに~」の文章を、句読点の位置などを事細かに「解釈」され、強引に「古田武彦氏を顕彰する」との意味に読み取ろうとされた。
 こうした強引な「読解」をしなければならないこと自体、既に無理無体である証しでもあるが、本会会則第三条(事業)にも「本会は、第二条の目的を達成するため、次の事業を行う。」として、その第一項に「古田史学の継承と発展、その宣伝顕彰に関すること。」と「顕彰」の対象が(古田武彦氏ではなく)「古田史学」であることを重ねて明記している。決して難解な誤解を与えるような文章ではない。荒金氏(及び役員会一同)は本会会則第二条の誤引用の上、すぐ隣の第三条をも見落とされたようである。
 なお、荒金代表(及び役員会一同)からの返答の最後は、次の驚くような「脅迫」で締めくくられている。

「(古田史学の会が今後も訂正要求をされるのであれば)古田氏の名誉を慮って公開を避けてきた録音内容の一切をも、会報で公開しましょう。そのことで当会の受けるダメージは微々たるものに過ぎぬのに反して、貴会はもちろん、古田氏の名声・評価等に暴落・失墜の生じること、火を見るより明らかでありましょう。このことを、最後に付言いたします。」

 荒金氏らは一体どこへ行かれようとしているのであろうか。

3. 隋代の例としては、水野孝夫氏が煬帝の詩に「島夷」を見出され、研究を深められている。本号掲載の「隋詩『白馬篇』中の島夷・卉服」を参照されたい。

4. 本紙三七号の拙論においても、〔追記〕として、比干碑の「島夷」について別の視点から作業仮説を呈示した。『北魏書』の「島夷」南朝に関しても、別に論述したいと考えている。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一~四集が適当です。
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