学問の方法と倫理           


古田史学会報 2001年6月6日 No.44
学問の方法と倫理

続・変節の論理

京都市 古賀達也

 高山前事務局長の脱会と新組織「多元的古代研究会」の立ち上げは、「市民の古代」理事会内部で進んでいた「古田離れ」に歯止めをかけるという、思わぬ効果を引き起こした。古田支持、多元史観支持を旗印にした高山氏の新組織に会員が流れることを恐れた一部理事が「古田離れ」主張を控えるようになったからである。そして、「市民の古代」は多元史観と古田氏を支持することを明確に盛り込んだ「理事会声明」 を採択することができた。同声明は小生が作成し、理事全員の賛成を得て成立した。会則から「古田武彦支持」の文言が消えたために発生した「古田離れ」の動きは、こうしてひとまず沈静化し、小生は会の拡大と全国化に全力を集中することができた。
 小生は勤務先で労組役員の他、中期経営計画作成プロジェクトにも参画していたため、 そこで学んだ経営分析・市場調査の手法やポートフォリオ分析などを駆使して、市民の古代拡大のための計画書を作成し、理事会に提出した。特に論議もなかったが、水野副会長(当時) から聞 いた話では、藤田会長は「経営者的発想が強い」との感想をもらされたようであったが、基本的には小生に任せていただいた。
 具体的には、拡大のための財源確保として、書籍売上げ利益より、一定額を一般会計に繰り込む積極財政策をとったり、大きな流行を迎えていたパソコン通信二フティーサーブの歴史フォーラム中の「古田史学研究会」 という電子会議室の立ち上げに協力したりした。また、『市民の古代・別冊』 の発刊なども押し進め、その印税の一部を会の収益にした。
 こうした積極策により、五百名ほどの会員は千名近くまで増加したのであるが、その一方で、 増え続ける会活動を支えるため理事の増員も進められた。このように一九九〇年代の初めに市民の古代は絶頂期を迎えたのである。しかし、会の肥大化に伴い、「古田離れ」の主張が再び頭をもたげてきた。会の急成長と影響力の増大を、会の「実力」と勘違いし、「古田武彦なしでもやっていける」 と思いこむに至ったのだ。しかも、その思い上がりともいえる考えは、足元の理事会内部で進んでいた。
 その動きは、まず丸山事務局次長から再発した。丸山氏が古田武彦講演会に協力したくないと言い出されたのである。これに対して、藤田会長が激怒され、丸山氏を解任すると言われたが、小生と水野氏が藤田氏をなだめて事なきに至った。しかし、結果的にはこの温情があだになってしまった。この後も、丸山氏は古田講演会後の懇親会で、古田氏に対して執拗に野次を飛ばすという事件を起こした。これには小生が激怒し藤田氏が取なされたが、理事会でも議題に取上げて、丸山氏の責任を追及した。しかし、丸山氏は謝罪することなく、代わって理事会として古田氏に謝罪するという顛末になった。
 また、丸山氏は安本美典講演会を開催してほしいと主張されたこともあった。これには水野氏が、市民の古代を誹謗中傷している人物を講演会に招くのはおかしいと、 強く反対されたため実現することなく終わった。このように理事会内部は丸山氏を中心として、古田離れの主張が公然となされるようになっていたのである。
 恐らく、外部から見れば当時の理事会は全く異常だった。古田武彦支持の研究団体と思って多くの会員が入会しているのに、その中枢の理事会では古田離れが公然と主張されていたのである。この時の非古田派の主張は「いかなる権威にも盲従しない」 という会則中の文言が根拠となっ ていた。すなわち古田武彦にも盲従しないのであるから、古田氏だけを講演会に呼び続けるのはおかしい、他の研究者も同等に対応するべきで、これが学問の自由であり自立した市民団体のあるべき姿である、というもであった。この新たな「変節の論理」は一見強力だった。すなわち、その言葉自体には反論しにいため、小生らはこの点を徹底的につけ込まれ、苦慮していた。今思えば、こうした「変節の論理」に真っ向から反論できなかった小生にも責任があり、恥ずかしい限りである。ただ、この時点では古田支持派は理事会で多数を占めており、古田離れが急速に進むことはなかった。しかし、その均衡が破れる時が近づいていた。
 それには、会の拡大に伴う理事の増員が変質への伏線となっていた。ある日の理事会で、秦政明氏を新たに理事に推薦する意見が金田裕之理事より出された。小生は秦氏がどのような人物かよく知らなかったが、その時いやな予感がしたことを今もはっきり覚えている。しかし、事務局長とはいえ若輩の小生が確たる理由もなく反対することもできず、秦氏の理事会入りが内定した(一九九三)。そして、小生と藤田会長が秦氏に理事就任の要請を行ったのだが、その時秦氏は奇妙なことを言われた。「僕は政治はしない」 と。小生には何のことか判らなかったが、変なことを言う人だな、ぐらいに思った。しかし、その秦氏が会内でもっとも政治的に多数派工作をされることになる。すなわち、氏のいう「政治」とはこのことだったようである。
 こうして秦氏の理事就任により、 理事会内の多数派工作は小生の気付かないところで徐々に確実に進められていた。そして、気付いた時には、古田支持派は少数派になっていた。それまで丸山氏が進めていた「古田離れ」は、秦氏という老獪な人物により「反古田」として本格的に変質していくことになる。それが決定的な動きとして現れたのは、あの安本美典による和田家文書偽作キャペーンが猖獗を極め始めた頃である。
 秦氏にすれば小生など青臭い若造も同然である。おそらく藤田会長も秦氏にとっては、手玉にとれる「 世間知らずのお人好し」と映ったに違いない。このことを後にいやというほど小生は思い知らされることになる。なお、公平を期するために述べるが、丸山氏は会の運営者としては不適格であったが、秦氏のように「政治的」に動いたり、人を騙したりはされなかった。むしろ、自らの意見を率直に述べる人であった。従って、人間としては今でも丸山氏に悪感情を小生は抱いていない。たとえば、会の分裂が決定的になった最期の理事会の休憩時間中、丸山氏は小生に、自らはニュース編集担当を退くから、会の分裂を防いで欲しいと懇願されたことがあった。 丸山氏も「市民の古代」を愛されていたのだった。( 続 )


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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